いわいのうた

 
 銀色に光るフォークは白い皿に出会ってカチャンと音を立てた。
「フィー……。先輩のごはん、美味しかったデス! ごちそうさまでした。キャブッ」
 唇の左端に飯粒をつけたままで夢見ごこちの野田恵。
 ゲップの発声までも電波なのは『のだめだから』の一言で済ませられるというものだろう。
 見事に空になった食器を重ねているのは、先輩と呼ばれたイケメンな指揮者の玉子。
 言わずもがな、千秋真一その人である。
 ピアノの個人指導の流れでまたものだめと夕食を共にする羽目になった男でもある。
 不本意と言わんばかりに眉間にしわを寄せたままだが、誉められてまんざらでもない。
 ふと時計の針が日付を越えているのが視界に入る。
 今日も今日とてオケの練習が遅くまで続き、晩餐前に行っただめへのレッスンが長引いたためだ。
「おい、飯も食ったんだからそろそろ……」
「そうですね。そろそろ……」
 隣室への帰宅を促す言葉に、のだめは素直に頷いて立ち上がった。
 何故かタオルと石鹸とアヒルの入った風呂桶を小脇に抱えて。
「お風呂に入らなきゃですネ」
 迷い無く脱衣所へと続く戸を開くのだめの膝裏を、両手に食器を持った千秋は押し蹴った。
「ヒギャ! ヒザカックンは膝でやるものですよ!」
「そんなもん知らん! 風呂入るなら自分トコの風呂に入れ!」
「水道を止められちゃってるから入れないんデスよ〜。お風呂貸してくだしゃい」
 のだめは憐れに懇願する。
 年頃の娘が風呂にも入らずに明日の朝日を浴びるという美しくないものを見るくらいなら、
己の家の給湯機能を貸与して回避する方がずっとマシだと考えた千秋は溜息を吐いた。
 くるっと踵を返すと皿の上に乗ったシルバーがカチャリと音を立てた。
「この貸しは倍にして返せよ」
 背中にのだめの嬉しそうな声を聞きつつシンクに向かう千秋真一。
 やはり世話焼きなオレ様である。
 千秋は2人分(厳密に言えば料理は3人分の量があったはずなのだが)の食器を運び、
汚れの酷いものをぬるま湯に漬けている間にテーブルの上を拭き、食器類を無駄ない動きで洗う。
 すんなり終わってみればトーションで拭いたグラスにも一点の曇りはない。
 家事をこなすというよりは、どこぞのレストランのプロも顔負けな仕事である。
 水回りを磨き上げ、部屋の片付けを簡単に済ませたところで脱衣所からの戸が開いた。
 頭から湯気を上げたのだめは色気だの艶気だのは皆無であり、できたてのゆで卵を彷彿とさせた。
「お風呂ありがとうございました〜」
「ああ。湯冷めする前に帰れよ」
 念押しするように言って入れ違いに脱衣所に入った。
 湿度の高さにむせそうになりながらシャツのボタンを外してゆく。
 上から4番目のボタンに手をかけた時、舐めるような視線を感じた千秋は振り返った。
「覗くなーっ!」
 赤くなるというよりは戸の隙間から変態スタイルでこちらを伺うのだめに青ざめた。
 はだけた胸元のシャツをかき寄せる千秋の様子にのだめはウフフと肩をすくめる。
「恥ずかしがらなくったっていいんですよ。のだめは妻なんですから」
「誰の妻だっ! 誰の!」
「誰のってせんぱ……」
 ずびしっと千秋チョップを食らったのだめは濁った声で「い〜」とうめいた。
 千秋によって閉じられた戸の向こうでは、愛の鞭デスね…などという感慨深げなセリフが聞こえた。
 鍵をかけてもまたのだめが覗いてくる気がしたため、しばしビクビクしていた千秋だったが、
慄いてるのも馬鹿馬鹿しいと気付いて入浴準備をすべくシャツのボタン外しを再開させた。
 それにしてもヘンな奴だ。
 即時に熱い湯の出たシャワー湯気の洗礼を受けつつ千秋は思った。
 湯船のへりに自分が置いた記憶の無いビニル製の人形が目に入ってつまみあげた。
 確か、のだめご贔屓の何トカごろ太。
「……へんな人形」
 呟くと髪から伝う泡が目に入りそうになり、慌ててシャワーで洗い流す。
 脳裏に浮かぶ可愛いじゃないデスかーと口を尖らすのだめの呪いの仕打ちに思えてぞくりとした。
 シャワーを止めると音が聞こえた。
 千秋は湯船に浸かるもそこそこにすると、風呂から上がった。
 帰れと言ったのにと苦く思う一方でピアノと自分を隔てている戸がひどく邪魔に感じた。
 傍で聞きたいという衝動が湧き上がるのは音楽に携わる人間の性であろうか。
 ドライヤーの機械音を出したくないために髪は生乾きのままで肩にタオルをかけるのみ。
 のりをきかせたパジャマに身を包んだ千秋は脱衣所の鍵を静か解除し、そっと扉を開いた。
 とたんに響く音の洪水。
 その曲はのだめと出会ってからイヤに聞き馴染んでしまった曲。
 そう、プリごろ太のオープニングだ。
 ……なんでそんなことが分からなくちゃならないんだ?
 千秋が自己嫌悪でげんなりとした時、ふっと音が止んだ。
 次いで流れだしたのはHill姉妹作曲の『Happy Birthday to You』。
 もともとは『Good Morning to All』という曲名であり、今の時間帯には似つかわしくない。
 だが、千秋は足運びに気を使いながら入室し、夜に相応しい音色に耳を澄ませた。
 のだめが弾いている曲は、日も暮れて帰る道すがらの飲食店のイベントで流れていた曲。
 しっとりとしたジャズ風にアレンジされ、モダンクラシック崇拝主義者ならば少し戸惑う曲調。
 それを更に、わざと難曲にするかのようなのだめアレンジが加わえてある。
 まるで気が違っているのではないかと評されるだろう曲に仕上がっていた。
 こいつ、なんでもありか。
 胸中で舌を巻いた千秋は最後の一音が止むのを待って、ピアノに近づき、空いた椅子に座った。
 つい先刻まで行っていた、のだめにとっては天国と地獄の合わさったような、
千秋にとっては面白くもあるがその何倍もしち面倒なレッスンの続きであるかのようである。
 のだめは千秋の意図する事がわからずほへ?と口を開ける。
「お風呂あがりの先輩ってイカガワシイですね」
 至極まじめな顔だから余計に性質が悪い冗談を(本気なのだが)、千秋は無視して椅子を寄せた。
「は。お風呂あがりにピンクのしおりモードへ突入ですか?」
「違うわっ! 今の曲のこの部分……」
 長い手足を伸ばして滅茶苦茶なバースディ曲の一部を再現し、より耳障りの優しいものにする。
「こう、速度を抑えれば次に移りやすいだろ。ドルチェにしてもいい。それから」
 まだ続く千秋のアドバイスを話半分に、のだめは鍵盤の上を這ってゆく千秋の指の動きに魅入り、
その指から産み出される音に聞き入っていた。
 頬を紅潮させて千秋の弾くピアノにうっとりと目を細める。
「きゃぼー…」
 聞いてるのか、と千秋が手を止めようとした寸前、鍵盤に伸びる腕が2本加わった。
 千秋のアドバスを経た誕生祝いの曲がのだめによって引き継がれる。
 数拍の間を置いて、千秋も鍵盤の上に置いた指を叩きはじめた。
「……リテヌートじゃなく、ゆっくり速度を落とせ。それぞれの音を丁寧に」
「ハイ!」
 その口もヤメロと思いつつ、口を突き出したのだめの繰り出す音に引っ張られてゆく。
 素直な返事とは裏腹に、のだめの弾き方は破天荒だった。
 だが、決して下手な曲運びなのではなく、豊かな感性が赴くままの曲弾きなのである。
 ここで音を上げては天才と謳われる千秋のプライドが許さない。
 何よりも、と横目で満面の笑みで指を動かすのだめを見て薄く笑う。
 楽しい音とはよく言ったものだ。
 イイよな。
 腹の奥底にじわりと生まれた熱を快く感じた千秋は、敢えてそれに名を付けようと思わなかった。
 ただ、先人の命名した響きは、部屋に満ち溢れていったのである。

 ― おめでとう 親愛なるあなたが生まれたこの日をどれだけ神に感謝することか
 ― おめでとう 親愛なるあなたが今日まで過ごしてきた日々のいかに尊いことか
 ― おめでとう 親愛なるあなたを称えるために歌いましょう
 ― ありがとう 親愛なるあなたが壮大なる喜びを世にもたらしてくれているのです







 蛇足的後日談。

「ベクシャン!」
 オケの練習に使われるホールで、しかもオケメンバーが各々雑談やパート練習をしてる中、
これでもかという破裂音を響かせたのだめは震えていからせた肩をゆっくり戻した。
 その顔は唾を逃れようと飛び退った真澄にチンクシャと言わしめた。
「風邪か? 千秋も風邪気味っぽかったし、流行ってるのかな。気をつけろよ」
 何なら今日は裏軒の特別メニューで薬膳粥を出してやる、とまで言ったのは峰だった。
 ヴァイオリンをジミヘン弾きしながらだったりするが、休憩時間であるので咎められることはない。
 のだめはずびびっと鼻をすすった。
「夕べ遅く……新聞屋さんが来るまで、先輩とのだめの愛のラプソディだったのデスよ」
 とたん、煩いほどざわめいていたホールが水を打ったように静まった。
 ギギィッとヴァイオリニストとして出してはならぬ音を立てた峰は弓をポロっと落とした。
 床につく前に掴み上げたのは腐ってもヴァイオリニストである。
「あ、あ、朝までですってー!?」
 真澄の叫びを皮切りに再びざわめくホール。
 とんでもない不名誉と言わんばかりに青ざめた千秋は指揮台の上で首を横にブルルンと振った。
 暗に示される事柄を否定する千秋の姿は目に映らないのか、のだめは小花を飛ばしてすらいる。
「ラブラブで朝まで楽しいコトしてましたよー」
「あああアンタって女は! よくも千秋様を汚してくれやがったわねえええっ!」
 千秋は足早に彼らに歩み寄った。
 決して真澄に首を締められているのだめを心配したためではない。
「妻と夫がラブラブなのは夫婦円満でいいじゃないデズ…ガ……」
「いつ貴様とオレ様が家庭を持った!?」
 千秋はまた誤解を生みそうな発言をしたのだめの脳天にタクトのグリップを力いっぱい振り下ろした。
 それは天然コルクでできていたが、指揮棒で殴られると物凄く痛い、立派な凶器である。
 千秋の鬼気迫る形相に気圧された真澄はやや手をゆるめた。
 周囲も、のだめの不思議ちゃん発想には今やすっかり馴れたものである。
 やはりそんなことがあるわけないかというノリの溜息や笑いが起こると共に事態は収束に向かう。
 安堵した千秋は騒ぎの原因であるのだめをいつものクールビューティな顔で睨み付けた。
「ただ二人きりで連弾していただけで、あることないこと言うんじゃない!」
 またもその空間はシーンと静まりかえる。
「……朝まで二人っきりで?」
 峰の素朴なツッコミによって、千秋は己の失言にハッと気付いた。
 頭を爆発させた真澄はのだめの首にかけた手に、先程よりも更に強い力を込めた。
「のだめーっ!」
「ぎゃぼーっ!」
「ちがうーっ!」
 三種の絶叫が響いたその日の練習は、あんまり進まなかったということである。


オワリ


 
 
 
 
お誕生日に迷惑顧みずこっそりしっかり捧げた品です。

ウチにしては資料探しましたが、用語など全部ノリ使用。(資料の意味が)
殴られた事は無いけど、どう見たってタクトは凶器だよなぁと思ったり。
SオケとR☆Sオケとどちらがいいか悩んで曖昧なままなままだったり。

おおたじゅんこさん、おたんじょうびおめでとうございますv(いつの話!)

< 2004.04.12 up >
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